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名 人

川端康成 著 1962年9月 発行 新潮文庫
(小説ですが、カテゴリー囲碁関連に入れました)

囲碁界の総本山ともいうべき市ヶ谷の日本棋院には、「幽玄の間」と呼ばれる対局室があり、川端康成の筆による「深奥幽玄」の掛軸が飾られています。1971年11月の市ヶ谷本院落成を記念して康成が贈ったものだそうです。タイトル戦などの特別な対局に使われる部屋にこの掛軸があるということが、川端康成と囲碁の浅からぬ関係を今に伝えています。

1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は、1972年72歳で自らその生涯を閉じるまで、小説家として多くの作品を残しました。そして碁を愛していた彼は、碁にまつわる文章も書いており、1938年(昭和13)に行われた本因坊秀哉しゅうさい名人の引退碁では、観戦記者に指名されて、その観戦記を新聞に連載しました。『名人』はその時の体験をもとにした作品でです。

本因坊秀哉名人は家元制度による最後の本因坊で、1936年に「本因坊」の名を日本棋院に譲渡しました。以後「本因坊」は棋戦により決定する事になりました。それから2年後、秀哉名人は木谷実七段と引退碁を打つ事になりました。持ち時間何と各40時間で、途中秀哉名人の体調不良による入院を挟んで半年近くをかけて打たれたという、今の時代には考えられない様な対局でした。この対局に負けて1年ほど後の1940年1月、秀哉名人は滞在中の熱海で68歳の生涯を閉じました。康成もこの時に熱海に滞在しており、亡くなる2日前にも名人を訪ねて将棋を(碁ではなく)指したそうです。そして、その死去に間近で接した事が『名人』執筆の契機となったようです。

『名人』では、対局者が大竹七段という名になっていますが、木谷七段がモデルであることは間違いないでしょう。この作品は、明治・大正・昭和と囲碁界変動の大変な時代を生抜いた勝負師秀哉名人と、新布石を提唱し新風を巻き起こす若手実力者木谷七段との人間ドラマを、観戦記者の目を通して描いた作品です。病身を押して対局を続ける老名人。それを見守る著者の名人への敬愛と慈しみの思いが、その緊張感ととも伝わってきます。

「本因坊名人引退碁観戦記」は、『川端康成全集 第二十五巻』(新潮社 平成11年10月発行)に所収されています。この巻には、他の観戦記や「呉清源棋談」などの碁にまつわる作品と、文庫版『名人』とは異なる最初に雑誌発表されたプレオリジナル「名人」も入っています。碁が解る方、川端文学に興味がある方にはお薦めですので、図書館で探してみて下さい。
by hitokohon | 2004-07-01 00:00 | 囲碁関連
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